ワタシの人生において
2009年11月1日 日常昨日、今日という日はワタシの人生においてとても大事な日だった気がする。
昨日は初めて出会った人。
今日は約20年ぶりに再会した人。
その人たちとは今後も大きく関わって行くかもしれない。
そう希望しているというか、自分がそう動かなくちゃいけないと思う。
今日本屋で、みうらじゅんのエッセイ本を立ち読みした。
印象に残ったのは、「1人で淋しいと感じた時は」
淋しくならないように努力するか、淋しいのに慣れるかのどちらかしかない、というのだ。
それでも淋しいと感じる時は、淋しくならない努力を怠っているということで、それは誰か他の原因ではなく自分がそうしているということ。
なんか納得してしまった。
それと同様で、誰かと出会って普段感じないものをピンと感じたら、「今度もつきあっていけたらいいのにな」と思うだけでいつのまにかまた疎遠になるのではなく、「今後もつきあっていきたい」と次は自分で働きかけないとせっかくのチャンスを逃してしまうことになりそうな気がする。
エッセイには他に、「毎日新しい日が来て新しい事が起こるのだから、人はいつまでも不安でなくなることがないのだ。誰もが不安なのだ。」とも書いてあった。
不安であたりまえ。
それもそうだ。
最近なんか日記をうまく利用できていない。
自分の毎日があたりまえのことをあたりまえにやっているだけで、「これを書こう」と思うことが少ない。
かと言って日々がつまらないわけではない。
まあ、それはそれでいいか。
昨日は初めて出会った人。
今日は約20年ぶりに再会した人。
その人たちとは今後も大きく関わって行くかもしれない。
そう希望しているというか、自分がそう動かなくちゃいけないと思う。
今日本屋で、みうらじゅんのエッセイ本を立ち読みした。
印象に残ったのは、「1人で淋しいと感じた時は」
淋しくならないように努力するか、淋しいのに慣れるかのどちらかしかない、というのだ。
それでも淋しいと感じる時は、淋しくならない努力を怠っているということで、それは誰か他の原因ではなく自分がそうしているということ。
なんか納得してしまった。
それと同様で、誰かと出会って普段感じないものをピンと感じたら、「今度もつきあっていけたらいいのにな」と思うだけでいつのまにかまた疎遠になるのではなく、「今後もつきあっていきたい」と次は自分で働きかけないとせっかくのチャンスを逃してしまうことになりそうな気がする。
エッセイには他に、「毎日新しい日が来て新しい事が起こるのだから、人はいつまでも不安でなくなることがないのだ。誰もが不安なのだ。」とも書いてあった。
不安であたりまえ。
それもそうだ。
最近なんか日記をうまく利用できていない。
自分の毎日があたりまえのことをあたりまえにやっているだけで、「これを書こう」と思うことが少ない。
かと言って日々がつまらないわけではない。
まあ、それはそれでいいか。
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